「グウェントのデザイン」シリーズへようこそ。定期的にお届けするこのコーナーでは、『グウェント』の根幹を成すコンセプトやデザイン哲学、その他の関連トピックに迫ります。今後取り上げてほしい内容があれば、皆さんのリクエストもぜひお寄せください!
『グウェント』がその最初期から独特だった点に、積極的なバランス調整を続けてゲームメカニクスを進化させてきたことがあります。今回はゲームとコミュニティの活性化に大きな役割を担う毎月の調整について取り上げ、その裏にある理由やプロセスに迫ります。
本題へ入る前にまず、「メタゲーム」について話しておきましょう。「META」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。「Most Efficient Tactics Available(使用できる最も効果的な戦術)」の頭文字を取った語とされますが、実のところこれは後付けの説明です。メタゲームという語は「beyond」を意味するギリシャ語「meta」を接頭辞にした語であり、「Metagame interactions」といえば、定められたゲームルールの外側で行われる対戦相手とのやり取りを指します。これには挑発的な言葉で相手を動揺させる行為や、『グウェント』においてはエモートでハッタリを利かせ、手札が1枚しかない危機的状況ながら相手の降参を誘うような行為が含まれます。
しかしそれよりも一般的なのは、特定の時期の特定のコミュニティにおいて用いられるプレイ方法を「メタゲーム」と呼ぶ使い方です。「特定の時期」というのはわかりやすいところでしょう。プレイヤーは時間が経つにつれて新たな戦術を発見し、腕を上げ、それまでの戦術に適用していくため、ゲームのプレイ方法が時期によって変わるということです。この変化はゲームそのものが変わっていなくても起こりえます。
「特定のコミュニティ」という点については、近所のショップで毎週集まって、実物のカードゲームをプレイしているケースを想像してみてください。そこには10~20人程度の常連が通っています。彼らの半分以上がわかりやすい派手な戦術を好むカジュアルプレイヤーで、4分の1がコンペティティブな本格プレイヤー、残りが実験的な戦略を好むプレイヤーや、なんとしても特定のデッキを使おうとするプレイヤーだとしましょう。あなたはたとえば、直近の国際トーナメントに関するインターネット上の議論をもとに「最適」なデッキを用意することもできます。しかしその効果が充分に発揮されるのは、あなたの周囲が特定のデッキを使っている場合のみです。たとえば《リヴィアのゲラルト》などの大型除去カードを異様に好むプレイヤーが混ざっているなら、あえて幅のあるデッキを使うほうが効果的でしょう。その時の状況で一番の結果を出せるため「準最適」な戦術を用いるというやり方は、フランク・ランツが「ドンキースペース」と呼んでいるもの (注意:リンク先は英語となります)でもあります。
インターネットの発展に伴い、こうした閉じた輪はしだいに大きくなり、時には境界が完全に消滅したかに思えます。とりわけ自動マッチメイキングのあるデジタルゲームではそうでしょう。ところが、こうしたメタゲームは依然として存在するのです。その最たる例の1つが『リーグ・オブ・レジェンド』の最初の国際トーナメントです。プレイしているサーバーが異なるため、ヨーロッパとアメリカのコミュニティは、用いられるロールや人気チャンピオンの傾向が異なる固有のメタゲームを発達させていました。これらの最初の衝突ではヨーロッパの戦術が勝利を収め、ゆくゆくは地域間のスタンダードが調和するに至っています。しかしここで非常に興味深いのは、英語という同じ言語を用い、同じ議論の場(Redditやゲームのフォーラムなど)を持っていた2つのコミュニティが、プレイ方法において大きく異なる発展を遂げていたことです。
もう1つの例としては、ニューラルネットワーク人工知能OpenAIによる『Dota』のプレイングが挙げられます。MOBAのメタゲームにおける定石は、ロールごとに異なる収入の優先度をもうけるというものでした。しかしOpenAIの戦略はそれとは大きく異なり、流動的な目標中心型のプレイを行い、各プレイヤーに均等にコインを分配して全員が効果的に戦えるようにしていました。AIの超人的なコーディネーションと、発達バイアス(大きな進化的ステップが必要となるため、人間の定石には至らなかった可能性)を考慮する必要がありますが、それでもこんな疑問が生じます。「勝っている以上、AIのプレイングは最適なのではないか?」と。たとえば『Starcraft II』のニューラルネットワーク人工知能AlphaStarは、基地をワーカーであふれさせる(効率を犠牲にして攻撃に対する回復力を強化する)傾向があり、その戦術はプレイヤーにも採用されるようになりました。
ここで強調したいのは、「メタゲームはプレイヤーの主観性に左右される」という決定的な性質です。メタゲームはプレイヤーの感じ方によって成り立っており、彼ら自身が戦った相手や所属しているコミュニティの影響、他のプレイヤーからの影響、個人的な好みなどの影響が入り混じっています。ゲームの客観的状態ももちろん影響力を持っていますが、メタゲームは常に、最善のプレイ方法の1つの解釈に過ぎません。インターネット上のプレイヤーは想像以上に分断されており、そこで出会うプレイヤーはそれぞれのランク、タイムゾーン、習慣の影響を大きく受けています。ゲームに関してどのような意見を持つかは、言語の壁だけでなく、視聴しているストリーマーや利用しているディスカッションの場の違いにも大きく影響される可能性があります。メタレポートはその好例で、レポートを作成しているプレイヤーは比較的近いコミュニティに属しているにもかかわらず、デッキリストや意見には差異が生まれます。
前置きが長くなりましたが、ここから「理由」の説明に入ります。バランス調整パッチを作るのは、ゲームをより楽しくするためです。ここにおいてバランスは手段であり、目標ではありません。
バランスを整える最も簡単な方法は対称的構造を用いることです。すべてのプレイヤーがすべての選択肢を常に利用できる状態を作れば、バランスの心配をする必要はありません。しかし非対称的ゲームプレイの人気ぶりを鑑みれば、さまざまな選択肢の模索とそこから得られるリプレイアビリティには、不安定な土台の上でバランス調整を強いられたとしてもなお、プレイヤーを惹きつけるものがあるとわかります。
もう1つ重要なのは、バランスとゲームプレイの間には必ずしも相関がないという点です。完全にジャンケンの関係を成している3つのデッキを用いたメタを想像してみてください。平均勝率の観点から言えばゲームのバランスは整った状態になりますが、マッチ開始時点から勝敗が確実にわかってしまう状況では、満足できるゲームプレイは生じえないでしょう。その代わりに私たちが目指すべきなのは、すべてのマッチが充分に「フェア」と感じられるよう、あらゆる組み合わせから両極性を減らすことです(すべてのケースに対応することは極めて困難ですが)。その上、ゲームはフェアなだけでなく、満足のいくものでなければなりません。マッチの進展に自分の判断が影響を与えていなければ勝利しても満足感は得られず、白熱したマッチであれば敗北したとしても満足感が得られます。これはかつて一部のプレイヤーが(《ゴルサー・グヴィード》で簡単に入手できる点も含め)《蛇流派ウィッチャーの錬金術師》に感じていた問題と同種のもので、平均で見れば必ずしも強力ではないカードが、苛立ちを生む原因になっていました。
そのため、実際のところ私たちが心配しなければならないのは、プレイヤー側が抱く印象なのです。たとえば、データ上で圧倒的な力を発揮している選択肢があり、しかしコミュニティの間ではその選択肢が弱いものと認識されていた場合、これを弱体化することはそのコミュニティにとって意外で信じ難い調整と映るでしょう。データが示す内容とプレイヤーが感じている強弱に食い違いが生じることは実際に多くあります(バランス調整におけるデータの活用は、それだけで1つの記事になる複雑なトピックです)。
バランス調整を行うという選択は単純に決定できるものではありません。コミュニティから不満の声があがるたびに開発チームが毎回対応していたら、現状のゲームに適応して答えを見出そうというコミュニティの意志を奪うことになりかねません。充分な時間を与えることで変更点の影響が見え始め、新たな戦術が発見されて理解が深まることによってプレイヤーの感じ方が変わるということもあります。この点で特によく知られている失態は8.2における《蛇流派ウィッチャーの師》の調整で、パッチの決定からリリースまでに時間差があったため、強力なデッキが発見された10日後にさらに強化されるという結果になってしまいました。
バランス調整の頻度を少なくしてほしいという要望は珍しいものではありません。特に格闘ゲームコミュニティではその傾向が強く、このジャンルでは歴史的にパッチ配信の間隔が長く、バランス調整によってキャラクターの操作感やプレイ方法が大きく変化することがあります。格闘ゲームとカードゲームには当然違いがあります。一般的な経験則として言えるのは、プレイヤーの主体性が多く確保される(プレイヤーの判断がゲームの結果を左右する度合いが高い)ほど、戦略を適応させる余地が大きいので、より多くの時間をプレイヤーに与えるべきと考えられています。
さらに一般的な話をすれば、変化の速すぎるゲームはプレイヤーがついて来られなくなり、変化の遅すぎるゲームは退屈になる可能性があります。そしてもちろん、「速い」や「遅い」の基準はプレイヤーによってまったく異なるため、バランスを取るのは簡単ではありません。
そこで次のトピックとなるのが、コミュニティは決して一枚岩ではないという点です。同じコミュニティの中でさえ大きく対立する意見が頻繁に出てくるため、開発チームにとって唯一の「真実」を見出すことは困難です(多くの場合そんなものは存在せず、単純に割り切ることはできません)。コミュニティ内に共通の見解らしきものがあったとしても、実際のところどれだけの人がそれに賛同しているかはわかりません。不満の声のほうが大きくなりがちなことは、よく知られているところでしょう。そのため、ある事柄に対する不満がコミュニティの意見をある程度代表し、他のメンバーの感じ方にまで影響を与えることがあったとしても、そこには大抵、同じ事柄に対して特に不満を抱いておらず、特に意見を述べていないだけの集団が存在するものです。ある不満に応えてバランス調整を行うと逆の意見が噴出するということはよくあります。これは、それまで楽しんでいた内容が変わってしまったために不満を持つプレイヤーがいるということです。
そこでこんな疑問が浮かびます。あるデッキまたは勢力がコミュニティの一部からは嫌われ(ニルフガード、あなたのことですよ!)、別の一部からは好まれている場合、手を加えるべきなのでしょうか? 答えが明確な場合もあります。強すぎるカードをプレイするのは楽しいかもしれませんが、ゲーム全体にとっては修正すべき対象と言えるでしょう。しかし他の状況では判断が難しく、哲学において時おり語られるとおり、幸福の最大化を目指した結果、全員が小さな不満を抱える結果にもなりかねません。
特定のデッキや戦術に苛立ちを覚えたとしても、それを使うことを楽しんでいるプレイヤーもいるかもしれません。だからこそ弱体化を行う際は、なるべく極端な調整は避けるようにしています。弱体化を行えばそれに落胆するプレイヤーも生むことになり、それによってあるデッキが使われなくなってしまえば、ゲームの多様性まで傷つけることになるのです。
しかしこのアプローチが必ず成功するとは限らず、「弱体化バイアス」に苦しめられることも多くあります。変更点は実際よりも大きな変化に感じられてしまう傾向があり、とあるカードが重要な弱体化を受けると、実際には充分な有用性があったとしても見放されてしまうのです(『リーグ・オブ・レジェンド』において、あるキャラクターの弱体化を告知したものの適用し忘れていたことがあり、それにもかかわらずそのキャラクターの使用率と勝率が下がったという事例があります)。弱体化された対象の新たな使い方が模索され、「再発見」に至るまでには時間がかかり、たとえば《ヴィー》は8.2で弱体化された後に使われなくなり、2ヶ月後にしばらく再浮上しました。
興味深いことに、これとは逆の現象も起こりえます。変化が小さいと受け止められた弱体化は無視され、使用率は影響を受けずに勝率だけが下がるのです。この現象がもっともよく見られるのが構築コストの上昇による弱体化です。コストの上昇は「ブロンズカードを1枚ダウングレードすればいいだけ」と軽視される傾向があるものの、状況によって確かにデッキは弱くなります。試合回数を重ねれば、弱体化は数%のポイント喪失となって現れます。50を5~6%上回るカードが非常に強力とみなされる環境では、この差は重大です。しかしこれは統計上の話であり、プレイヤーの感じ方とはかけ離れています。
それと同時に、構築コストの変更1つが極めて大きな影響を生んだ例は数多く存在します。たとえば8.2における《マキシー・ヴァン・デッカー》の強化は、このカードを使いどころのない存在からコンペティティブなデッキの代表的存在に変え、9.0における《アイスト・テルショック》の弱体化は戦士デッキが使われなくなるきっかけになりました。
《ジャックポット》も興味深いケースです。9.0で行われた調整では、構築コストボーナスが16となって勢力内で有力なリーダーアビリティとなりました。9.1ではそこから1ポイントの弱体化が行われましたが、支配的地位を揺るがすほどの影響はありませんでした。さらに9.2で2ポイントの弱体化が行われるとほとんど使用されなくなりましたが、9.4で行われた《掘削機》の弱体化を受けて再浮上すると勢力の中心に返り咲きました。「力の代償」は当時のシンジケートに静かな影響を与えたため、このリーダーアビリティに関する認識の変貌ぶりがよくわかります。もし最初から構築コストボーナス13や12で登場していたら、どうなっていたでしょうか?
複雑に絡み合ったシステムにおいて、ある変更点がどのような影響を与えるか予測するのはそれ自体が難しいことです。そこにプレイヤーの感じ方を加味するとなると、予測はさらに難しくなります。
軽微な弱体化でもプレイヤーの感じ方は大きく変化することがありますが、強化の場合は逆の現象が起こりがちです。デッキの弱体化を行う場合は、それを使ったことのあるプレイヤーが多いため、弱体化の結果を想像しやすいという状況があります。一方で強化を行う場合は、あまり使われていないアーキタイプが対象となりやすいため、現状の把握がずっと困難になります。強化されたカードが使用に値するかどうかを確かめるには時間と手間が必要なため、強化の影響をあまり感じなかったとしても多くのプレイヤーは気にしないということが起こりえます。
アーキタイプにフォーカスして強化を行うという最近の方向性の背後には、こうした理由があります。この方法ならより野心的な変更を加えることができ、そして何より、強化や変更がまとめて適用されることで、違いを試して実験してみようという気持ちが高まり、新鮮味を与えることもできます。その結果、多くのプレイヤーが調整対象のアーキタイプを試してみるようになります。結果的に弱すぎると判断されてしまったとしても、プレイヤーに認知されたことで有益な情報が提供され、その後の改良に活かすことができます。ですがこのアプローチの場合、最も刺激的かつインパクトのあるタイミングで一斉に変更を適用したいがために、一部の強化の適用を遅らせることも起こりえます。
バランス調整とプレイヤーの感じ方についてのまとめとして、強調しておきたいことがあります。それは、プレイヤーの意見を取り入れるからといって、コミュニティが必ずしも「正しい」とは限らないという点です。コミュニティの感じ方にはバイアスがかかっている場合があり、この記事ではその例を複数紹介しました。ですがここでお伝えしたいのは、「ユーザーは自分の感じ方には敏感だが、その理由を誤解し、望ましくない解決策を示しがちである」という一般的なデザイン原則です。この種の分析は非常に複雑なため、無理のないことでしょう。私たちも常に正しい答えを見出せるわけではありません。であればこそ、デザインにおいては自身を疑うことが重要になってきます。
ビデオゲームにおけるこの原則の代表例 (注意:リンク先は英語となります)としては、『Wolfenstein: Enemy Territory』の事例が挙げられるでしょう。このゲームでは連合側のThompsonという武器が、枢軸側のこれに相当する武器より優れているため弱体化すべきだと考えられていました。しかし実際には両者の性能は同じだったのです。しかもこれにはデータ上の裏付けもあり、Thompsonを使用したプレイヤーのほうが良い戦績をあげていました。開発チームは最終的に、Thompsonの射撃音がその原因の一部だと特定しました。より迫力のある射撃音が強い印象を与え、そのおかげでプレイヤーの行動が積極的になり、好成績にまで繋がったのです。効果音の調整によって、この問題はおおよそ解決しました。
『グウェント』においても、問題の解決策として不適当な提案や、むしろ問題を増やしてしまう提案を受けることが多々あります。たとえば9.6で《ミルヴァ:狙撃手》がリリースされた後には、彼女に「献身」の条件を付けるべきだという提案が多く寄せられました。しかしこの提案には複数の問題点がありました。第一に、このカードが使われている一部の(そして最も強いとは限らない)デッキにしか対応できていないこと。さらに、この方法ではプレイできるデッキの多様性が大きく限られ(それは私たちの目指すところではありません)、「献身」の条件はプレイヤーに無視されがちなため(この点は別の機会に語りましょう)、相対時の印象も変わりません。
もう1つの例は「ワイルドハント」、「ドワーフ」または「集会」にもっと良いコントロールツールを与えるといった提案や、すべての勢力に「浄化」を与えるといった提案です。そうした調整は短期的にはアーキタイプを助ける効果があるかもしれませんが、私たちは勢力やアーキタイプにさまざまな弱点やプレイ方法を設定し、適切な強みを持たせてバランスを取ることでそれぞれのアイデンティティを維持しており、これが非常に重要だと考えています。これまでには失敗もあり、比較的古いデザインでは勢力をまたがるパターンを使用し、どの勢力も似たようなツールを使用できる状態になっていました。しかしこの点は現在も取り組みを続けており、私たちはデッキのバラエティが豊かなほうがゲームは面白くなると考えています。そのためのアーキタイプ構築はより難しく、アイデンティティの再考が何度も必要になる可能性もあります。
以上のことや、この記事で説明したデザイン原則により、カードのバランス調整において私たちは直接的な手段を避けることがあります。多様かつ相反するさまざまな意見が寄せられるなかで、私たちはいつ(そしてどのように)変更を加え、いつ意見を信頼すべきかを判断しなければなりません。その目指す先にあるのは、ゲームを最高の状態で届けるというゴールです。